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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



仕事とは、やるかやらないかだけである。

いきなりだが、損益計算書も貸借対照表も決算書も、本当の経済からみたら不具である。理由はそこに時間を書く欄がないからである。労働時間は勤労管理や人件費のジャンルに押し込められていて、金銭の流れとは別立てとされている。だけどそれって変じゃね?利潤追求の大切な要素には、まちがいなく労務時間があるじゃん?っていう疑念があるはずだがそんなちっぽけな違和感は、「なんだこれジャマだ」とばかりみんなひょいと飛び越したり、見なかったことにしてしまう。

 

この、昔からの連綿と続く「麻痺」が、いま、ブラック企業の存立基盤となっている。労働者の時間なら、搾取してもいくらでもゴマカシが効くし、逆に言うと労務時間には純経済学的に理論的なバックボーンは(労務法以外には)ないからである。だから本質的に言うと、「ブラックな会社とホワイトな会社とグレーな会社が世の中にはある」ではなく、「企業体そのものが例外なくブラックだ、資本主義はまっくろじゃ」となる。言っとくけどこれは労働基準法とかに違反してなければOKっていう次元の低いハナシじゃないからね。

 

(本当は時間じゃなくて、人間性こそが真の経済を成立せしめる唯一の要素であるのだが、人間性を書く欄がないのはまぁ現行では致し方ないにしても、せめて計量が可能な、勤務などの「時間」への評価をもっと精緻にしていかなくては、人の世はいつまで経ってもホンモノの経済には至れまい、ってことである。言うまでもないが原則は、経済とは何のためか?人に寄与してこそである、ということだ。そこまで至ってない経済など、資本主義だろうが自由経済だろうが呼び方は何であれ、いつまでたっても画餅である。成果主義も実力主義もある種のゴマカシだ。年功序列制度の方が時間へのヘリくだりがある分、まだマシとさえいえる)

 

このように、現代の経済とはまず第一に人間を疎外するもの、という悪反省に立って、金銭の流れ以外の評価軸を、貨幣に拮抗するほど骨太に打ち立てないと、すなわち経済学にコペルニクス的転換がないと、画餅はずっと同じままで腐るだけであり、人間社会の将来的ありようとしてはまるでダメである。経済学やらの学問分野は、そのへんの「本来の未来志向」をどう考えておるのか。ただ既存の枠組みの中で理論をこねくり回しても、果たして何もできはしまい(いや自分の給料だけを心配する態度なら、経済を永遠の課題にしておいた方がいいと思うはずだ。どうせ学問なら実害はないとか思いつつ。しかしその根性がおのれの死を招くのである

 

また現代経済の悪弊をもうひとつ挙げよう。「売れ筋」の追及である。小売り業や販売業なら品ぞろえの面で誰もが当たり前のように狙う売れ線とやらも、思考停止の幻想であり、不毛な悪弊だ。売れ筋や売り上げランキングとは、他律であり横着である。剽窃であり横取りの発想である。自分の関与はそこには何もない。ただ外からの基準に従うだけだ。「基準」とやらが横取りのコピペであることにも気づかずに。そう、いまの経済とやらはぜんぶこの短絡さだ。

 

家電量販店は堅調な業績推移なのに、東芝やシャープなどの家電メーカーは青息吐息ばかりになってるのはなぜか。それはよく学者や評論家のいう海外拠点への投機失敗とか、リストラ戦略の遅れなどの些末な理由ではない。その真因は、メーカーが心血注いで新技術を開発しても、成果を横取りされまくる時代に、ここ20年ほどでなってしまったからだ。量販店は売れ筋商品だけを仕入れられれば、メーカーが違ってもいいから太ってこれたし、技術を盗むテクノロジーは、その本体技術をしのぐほどの発達をとげていると聞く。また、本体がなくなればコピーも死ぬわけだが、コピーする側はそんなことを意にも介さない。ひとつダメになっても次の何かに乗り移ればいいだけと思ってるし、そのとき儲けられればそれでいいという、焼き畑農業的な態度だからだ。

 

(こういうヒドい状況を招いたきっかけのひとつは、90年代に始まった「オープン価格制度」である。あれがメーカーから価格の決定権を奪い、利益は量販店に直結、という骨抜き現象のはじまりになった。そして以前の家電量販店の地位は、今やAmazonにどんどん横すべりして主役交代していく途上であるのは言うまでもない。以下は私見であるが、オープン価格制は自由競争と消費者保護が本来の意図であったのが、その本来の意図よりもメーカーの利益構造を破壊したという骨抜き弊害の方が、今となっては何倍も大きい。にもかかわらずその検証も行わないまま現在にまで至っているのが、メーカー不況にさらに追い打ちをかける因子になっている)

 

横取り経済。それは文具メーカーが新しいシャープペンなどを開発しても、特許などの策を講じなければ半年後には類似品が100均ショップに並ぶのと同じ現象である。しかもオリジナルにおける開発費上乗せがないから後発組はその分価格は安く、それでいて品質は同等である。まさに、正直者がバカを見る世になっているのである。

 

こうした「経済」活動は、ことの本質を見てないと「効率化」などと評されてもてはやされる傾向があるが、まるっきり違う卑怯な態度だ。それは「勝ち組」などを生み出すかもしれないが、一瞬の蜃気楼にすぎない。それどころか逆に、さっきも述べたような人間疎外を、巡り巡って引き起こすだけである。

 

例:楽天。あれは昔からある百貨店同様、媒体貸しだけの虚業である。中身はネットモールの運営ノウハウだけだ。出展者(楽天にとってのカモ)の努力は、楽天へのテナント料金に化け、三木谷社長の養分となる。一度出展を検討したこともあったが、楽天のマージンは料率が高く、粗利率がよほど高くないととても店を出せない。店側は自前の商品に自信があるなら、当初は孤立無援でも独自ドメインのHP販売1本に絞るべきである。本当のノウハウが身に付く地点はそこしかないし、あらかじめ準備されたワクみたいな中に、儲け話が転がってるわけがない。

 

コピーとオリジナルを反対の視点から考えると、前にも書いたが、真のオリジナルは人間個体であり、情報の本家本元は人、すなわち宇宙唯一の、他ではいっさい代替不可能な、あなたやわたしである。だからさっき書いたように、ホントの経済は人間性への執着なのである。したがって、経済指標における人間性評価への取り組みは、はじまってもいないどころかその萌芽の兆しすら見えない点で、今はまるでダメである。相も変わらず何百年も、ケーザイはゼニの流れとかケイキの波とかを追ってるだけで何の展望もない。経済論評も、ただの現状分析というか観察がおのれの本体だと思ってる。そんな経済などカタワどころか始まってすらいないと、マルクスを棄ててぼくはここに断言する。

 

だから、いわゆる経済回復(というか真には停滞、というかはっきりと退化)は、近代社会の腐敗と軌を一にしている。つまりそれは近代以降、身分だったり国家だったり、資本家だったりによって、人が人らしく自分の生を生きることをおろそかにさせられてきた、腐った歴史進行と一致する。民主主義などと称される今だってそうだ。ネットになってコピペでコンテンツを形成することが当たり前となり、小学生でもできるくらい容易になったが、生の充実、成長の輝き、はつらつとした生き様の獲得に、コピペはいっさい貢献しないのである。コピペは自分をみつめることではなく、見えなくさせるだけだからだ。スマホなども同じ、非成長・愚鈍化ガジェットである。ほんとの経済も民主主義も、まずこだわるのはそこからの改善だろう。

 

仕事はなんでもそうだが、やるかやらないかだけである。言い換えれば、実務担当の当事者になって泥にまみれるか、客観的で見事にクレバーな能書き掲示者にとどまりつづけるか、だけである。そこに自分の決意がこもってるかどうか、それだけである。それが生きることと同義でなけりゃ、人はたんに経済の奴隷で終わる。

 

<了>